オフショア市場とは?
非居住者との資金取引に対し、国内取引において適用される金融上及び税務上の制約を排して自由な取引を行わせる国際金融市場をいう。 その特徴としては、金融面では預金金利規制及び支払い準備の適用外、税制面では源泉徴収税等の免除又は為替管理規制の適用除外等である。 外国為替 を新たに王としたものの、彼ら新王と洪仁?との溝は深まるばかりで、再び太平天国は内紛の様相を帯びてきた。特に李秀成・李世賢は洪一族に対し李氏閥を形成し、独断専行が徐々に増えていくことになる。たとえば1860年における上海攻略はその好例であろう。江南地方の制圧を進めていたのは李秀成軍であったが、上海だけは列強の租界があるため攻撃が控えられていた。この時洪仁?は西欧と交渉し、少なくとも清朝に荷担しないよう画策していた。しかし交渉に業を煮やした李秀成は、一転攻撃を仕掛け、逆に手痛い反撃を受け自身すら負傷したのである。これなどは洪仁?・李秀成両者の西欧体験の有無が大きく影響した結果生じた齟齬と言えるであろう。そしてさらに深刻な事態が発生した。英王陳玉成は長江中流で湘軍と死闘を繰り広げていたが、武漢で李秀成軍と合流し共同で曽国藩にあたる作戦を立てていた。しかし李秀成は江南制圧を重視し、合流は果たされなかった。結果陳玉成は敵地に孤立し殲滅されたのである。 FXの太平天国であれば、一旦敗走しても兵力の増強はさして問題ではなかった。規律正しい太平天国軍は民衆の支持を受けていたためである。しかし末期になると、規律は全く弛緩しきっていた。太平天国が食の確保に追われ無秩序な徴収・略奪を重ねていたことが主な原因である。投降した清朝兵士を自軍に編入し、質が一層低下したこともそれに拍車をかけた。しかし兵の質が劣化しても、そのプライドは健在であった。そのため太平天国と同時期に発生した捻軍等のほかの反乱軍と歩調を合わせる動きがあっても、太平天国側の自尊心がそれを阻害した。太平天国は末期症状を呈し始めていたといえよう。 太平天国の劣勢は、自壊作用だけが原因ではない。清朝側の軍建て直しも大きく功を奏した。清朝の軍事は八旗と緑営を基本としていたが、時代が下るにつれて退廃して使い物にならなくなっていた。そこで新たな軍形態が模索される。すなわちすでに幾度か触れたが、曽国藩の湘軍・李鴻章の淮軍がそれである。この新形態の軍は極めて個人と個人のつながりを重視した組織であった。曽国藩はまず故郷において、自らを師と仰ぐ人々を集め、さらにその人々が個人的に信頼する部下を地縁・血縁・学問の関係の中から集める、といったかたちで軍を形成した。その忠誠心は清朝よりも指揮官個人に向けられているといってよく、曽国藩の私兵的性格が濃厚であった。1854年以降、湘軍は長江中流域において太平天国を迎え撃ったが、それだけでは太平天国に対処し切れなかったために、1862年に李鴻章に命じて安徽省で湘軍をモデルとした淮軍を創建させた。この淮軍は太平天国の乱が収束しても湘軍のごとく解散しなかったために、以後の中国近代史に確固たる地歩を占めることになる。 FXは外国人傭兵部隊とも戦わねばならなかった。上海の官僚と商人が資金を拠出して、西洋式の銃・大砲を整え租界にいた外国人を兵として雇用したのである。この軍はアメリカ人フレデリック・タウンゼント・ウォードを指揮官とし洋槍隊という名で発足した。翌年には、中国人を4,5千人徴兵し常勝軍と改名した。中国初の西洋風軍隊といってよい。ウォードの戦死後、多少混乱があったが、イギリス人チャールズ・ゴードンが指揮官に就任すると再び破竹の勢いを取り戻した。常勝軍の成功に倣い、各地に同様の軍隊がつくられた。常安軍や定勝軍、常捷軍がそれである。同じ中国人であっても洋式の軍隊装備をすれば強くなれる、ということを常勝軍は証明していた。この強さを目の当たりにした曽国藩らは以後軍隊の近代化に力を入れるようになる。つまり常勝軍は洋務運動の原点ともいえるのである。1860年10月に締結された北京条約以後になると、欧米諸国は明確に太平天国に敵対した。上海や寧波の戦いでは英仏軍が積極的に参加し、太平天国軍は苦戦を強いられたのである。 太平天国が一息をついた1859年、馮雲山とともに最も早く拝上帝会に入信した一族の洪仁?が天京に到着した。彼は清朝との争いの中ではぐれ、香港のイギリス人宣教師の下に身を寄せていたのであるが、何回かの合流が失敗した後、ようやく天京に至ったのである。天京事変によって五王体制が崩壊した後ということもあって洪秀全は驚喜した。早速洪仁?を干王に任じ、内政を掌握せしめた。洪仁?は香港に隠れている間、ロンドン伝道会のアシスタントをする一方、医者や教師としても活動していたらしい。洪秀全と違い、洗礼も受けていた。香港での生活は、洪仁?に西欧文明に触れさせ、太平天国の首脳や当時の儒家知識人とも違う思考をさせるきっかけとなった。すなわち彼は太平天国において西欧を模範とした制度改革を図ったのである。その内容は『資政新編』に詳しい。まず内政においては、鉄道・汽船といった交通網の整備や鉱山の開発といったインフラ整備、新聞の発行や福祉の充実、科挙改革を提言した。外政的には、西欧を対等のものとして扱い、通商関係を築くことや宣教師活動の許可を主張している。その先進性はこの提言が明治維新のおよそ8年前であることを想起するだけで明らかであろう。しかしこうした改革提言は実を結ばなかった。洪仁?のいうことに洪秀全は妥当という評価を与えていたようだが、その他の首脳たちにとって洪仁?のいうことはあまりに経験則から離れた事柄であって、有り体に言えば理解不能であったのである。皮肉にも『資政新編』の内容は、天敵曽国藩や李鴻章によって引き継がれていく。その改革を後世の史家たちは「洋務運動」と呼ぶ。 FXの加入に洪秀全は大いに安堵を覚えたのであろうが、李秀成らは不満を抱かざるを得なかった。初期の信者とはいえ、洪仁?の改革が現実離れしていることや、さして戦功をたてていないことから、彼が王に封じられるのは洪秀全の身内びいきとしか思えなかったからである。このため洪秀全は将軍たちを王として認めざるを得ず、李秀成を忠王に、李世賢を侍王に、陳玉成を英王にそれぞれ封じた。これ以後、志気を鼓舞するために王位が乱発されるようになり、悪しき先例となった。 1863年以降、太平天国は太倉州・無錫・蘇州・杭州と次々失い、天京は孤立した。侍王李世賢ら諸王はすでに洪秀全を見捨てていたが、忠王李秀成だけは清朝の囲みを破り天京に舞い戻った。そして洪秀全に天京を破棄することを勧めたが、洪秀全は頑として受け入れず、逆に李秀成に防衛にあたるよう命じた。孤立した天京は食糧事情がすでに逼迫しており、雑草を「甜露」と呼んで食べていたほどであった。首都でありながら、防衛に当たるべき兵士が暴徒化し、誰しもその終焉が近いことを悟らずにいられなかった。そしてついに1864年6月1日、洪秀全は栄養失調により病死した。李秀成によれば直接の原因は「甜露」を食べて体を壊したにもかかわらず、薬を服用しなかったためだという。自殺説もあったが、それは湘軍の功績を過大評価させるための意図的なデマだったようだ。死の直前、「わたしは天国に上り、天父天兄から兵を借りて、天京を守る」と述べ、これが洪秀全最後の詔となった。 ただ辛亥革命前後から、太平天国への評価は再び持ち直したようだ。これは中国本土でも同様であった。革命の立役者孫文が太平天国に深く傾倒していたことや、キリスト教信仰が明治維新以後解禁されたことから抵抗感が薄れたためであろう。洪秀全たちは長崎から亡命した大塩平八郎が名を変えたもので、その後太平天国の乱を起こしたのだ、という珍説まで一時流布した。 太平天国と日本との逸話は、昭和になってもある。洪秀全の郷里広州花県に、1930年代(年不確定)に日本軍から洪秀全の子孫だという兵士が二人訪れたという話がかの地に伝えられている。これは日本軍の宣撫工作であったと思われる。 また、中国の王暁秋や日本の広沢吉平らは、欧米列強が清と同様に開国したばかりの日本でも太平天国の乱と同様の民衆反乱を誘発する事への危惧から、1860年代の明治維新前後の日本国内の戦乱に対して直接的な軍事介入を行うことなく、結果的には列強が日本を植民地化する機会を逸したとする説を唱えている。